ラップの作詞法と情緒と俳句の親和
歌詞を書くなんていう恥ずかしい行為について
恥ずかしげもなく触れるとすると
センスのある共感性とは
「究極のあるあるネタ」であると思っている。
それは
「ラインに既読がつかなくて寂しい」的なものではなく
もう一つ日常に沈んだ深層部分のあるあるであり
誰もがまだ言語化できていないあるあるにこそ表現の妙を感じる。
例えば「夏」がテーマの場合
●「アイスコーヒーを飲む」
これは普遍的ではあるが至極当たり前のあるある。
●「結露したアイスコーヒー」
これはすでに「飲む」という意味を含有させたうえで
もうひとつ要素を付け加えたもの。
●「誰かがコーヒーを置いていた跡」
コーヒーのグラスが置いてあったであろう不完全な円形の水跡。
個人的にはこの3つ目のセンスを求めている。
更に「夏」=「誰かがコーヒーを置いていた跡」と
直結していればいるほど、そこに文学を感じる。
文脈に余白が残っているものが、ぐっとくる。
NODのwhite outという曲中で
『僕ら昨日のことを今日と呼ぶその言語感覚を共有している』
と歌っているのだけれども、
これは「日付を越えて明け方まで遊んだ」あるあるだと思って書いたが
こういった一文は前後の文脈とかけ離れているほど美しく、
もっと言えば単体で見てもらいたいという欲望がある。
なかなかこういった文章の好みを人に話しても
上手く伝わらずヤキモキしていた。
なんというジャンルなのかこれは。
がしかし、最近近しいものと巡り合った。
俳句。
更に言えば自由律俳句だ。
一般的に良い句とされるのは
どれもこれも「目の付け所の良いあるある」なのだ。
まさに痒い所に手が届く感覚とはこのことを言うのかと思った。
ラップという歌唱法において
発音と拍との兼ね合いを考えたとき
母音レベルで文を精査する作業が必ず生まれる(他の人はどうか知らない)
少し難しい話をすると、
例えばひらがな1字「ま」を
【子音M(0.5字)】+【母音A(0.5字)】=【ま(1字)】と捉える。
作詞完了後、いざ発音した際
「この小節には16字が望ましい、が0.5字多い」
と思えば
【母音A(0.5字)】を削り【子音M】だけの発音を残す。
一見数学的な考えでもあるが、
これを感覚的に、且つ丁寧に精査するのだ。
この作業が俳句を詠むことと非常に似てる。
これに気づいてから俳句を見る目が大きく変わった。
特に自由律俳句にはかなり感銘を受けた。
(5・7・5ではなく自由な律でOK)
そこで
放送作家のせきしろ氏とピース又吉氏の自由律俳句に出会ったので
以下素晴らしい彼らの句
「カキフライがないなら来なかった」
本の標題句。
店頭の看板とか食べログで事前に見て
食べたいメニューがあったから店に入ったんだろう。
切なくて良い。
「思ったよりお礼を言われなかった」
「カツ丼喰える程度の憂鬱」
「もう引き返せないということもない」
「結露した窓の中にいる」
「廃校にも咲いていた」
「断ったのに聞き返された」
「ブランコに濡らされた手を拭く」
全部ちょっと切ない。
あとこの方のnoteも面白かった。
https://note.com/hsb/n/ndd95610f4c31
以上です。