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ラッパーです。

正解のワイン

肉とワインが「合う」のは舌の上でなく
脳の中での話かもしれない。

 

幼いころから「肉料理には泥水が合うよね」 なんて情報を刷り込まれたら
28歳の今、ステーキと泥水を食卓に並べてた可能性もある。

 

寿司と日本酒、パンとミルクは分かる。
原材料に共通項がある場合は仕方なく、合う。

根本が一緒なんだからそれは合うとか以前の問題でもあるが。


数年前から「レモンサワーとから揚げは合う」 的なCMをよく見る。
それまではなんとなくで机の上に並んでた両者が、
CMを見た後はどことなく仲睦まじく見える。
イメージ戦略の成功とも言えるが、
意識して嗜むと不思議と確かに合う気もしてくる。

 

そもそも「合う」という感覚が人一倍希薄な自分にとってはそれらは全て疑念の対象になる。


彼奴らは情報を食べているのではないのか。

 

ビールは本当に美味しいのか、コーヒーは本当に美味しいのか

時々見失いそうになる。

 

そんなことを言っていると大抵は目の前でスマホを操作され
挙句の果てに「肉のたんぱく質を赤ワインの酵素が」なんて
ネット経由の講釈が降りかかる。

 

そういうことじゃないんだ。

 

不思議だと言えばフィギュアスケートもそう。

演技の「美しさ」を数字化して評価するなんて無謀だ。

例えば一切の回転をしない演技もそれはそれで美しいはず。
直立不動でリンクを高速で周回すると得点はどうなるのか、 非常に気になる。

例えば綺麗に華やかに転倒した場合は加点するべきじゃないか?
例えば4回転ではなく一気に30回転くらいしたらもうそれは下品 じゃないか?


観客も観客で
大勢でなく、一人しか観客席にいなかったらどうなるだろう。
演技の端々で拍手するタイミングは自分ひとりで掴めるか?

 

要するにこれも
「○○をすると美しい」という「正解」がある。
競技である手前、致し方ないが
その「正解」というものは
大勢の中にある固定観念や歴史が作り上げてきた価値観だ。


2020年、ラッパーとしてステージに立つ機会はかなり減ったが
ありがたいことに自宅で机に向かう仕事はほんの少し増えた。

 

時折いわゆる「自信作」が完成するときもある。
それが誕生した際には自分が天才になったような錯覚に陥り
本当に初孫の様に作品を可愛がる。

 

がしかし、 先方に提出した際にそこまでの評価を得られないことも往々にして ある。

 

まあ仕方ない。
それもアレだ。合う、合わないの話だ。
誰も悪くない。
自分の持つ「正解」が相手の「正解」ではなかっただけ。

 

それでもなお「自信作」だと言い切る気概こそが
元来「こだわり」と呼ばれてきたものなのだろう。

 

とはいえ同志との「正解」のすり合わせは大事。
そこを怠っていいという話ではない。

正解じゃない=不正解 というわけでもないしね。

 

先日人生における正解が一番近い人間と結婚した。

誰かにとっては泥水のような自分が
ワインの様にいれる場所に落ち着いた、と思いたい。

仲睦まじく生きるのだ。