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ラッパーです。

カラオケとか行けば一瞬で解決しそうなストレス

怒れる人になりたい話。


瞬間湯沸かし器なんて揶揄される人とは距離を取って生きてきた。
何かの拍子で一瞬で感情をピークまで持っていけることはある種才能だと思う。

でも自分はその地雷を踏みたくないし、そもそもそんな危なっかしいやつとは
初めから心を開けるイメージがつかない。
つくづく自分とは対極にいるタイプの人間だと思ってた。


自分はと言えば昔からそう。

大盛り頼んでないのに大盛り出して大盛りの料金請求してきたあの王将も

天つゆが来ずに鶏天をプレーンで食べる羽目になったあのジョイフルも

順番を抜かされたマックも、自分のサラダだけが来ない定食屋も

何も指摘をせずに受け入れる癖がある。

見ず知らずの他人に一言物申すより
受け入れた方がエネルギー使わないで済む。

誰かのサラダが来てないなら「俺、言ってやんよ」の気概はある。
でも自分ひとりならまあいいかの精神。

それほど他人に指摘、糾弾する行為はカロリーの高い位置づけである。


他人の目を気にしすぎているという要因もある。
いわゆる「気にしい」な僕は他人の考えを邪推して
勝手にバッド入ってしまう。
その結果、特定の誰かとの間に壁を作ったり
手の届かない葡萄を酸っぱいものだと思い込んだり。
結局それが単なる思い過ごしだと後々気づくお決まりのパターン。


事なかれ主義とやたら過剰な自意識のせいで
特に人前において、他人に怒りをぶつけることは、まあない。

がしかし、時には怒りを提示することが必要な場面もある。

 

憤ることはないわけじゃない。
でも納得のいかなさや理不尽や失礼にはまず最初に狼狽してしまう。
その違和感が純粋な怒りに代わるのは数分から数時間後の話。

この時間差によって、大抵はもう間を失っている。
感情の起伏にラグがありすぎるんだ。

 

そこで話は冒頭に戻る。

瞬間湯沸かし器のような瞬発力を持ちたいという話。

あくまで感情の瞬発力。
時と場合を見定めたうえで感情を爆発させたい。

 


そんなことを先日、
見ず知らずの年下の女に『ラップしてよ韻シストもどき』と言われた帰り道に思ったのです。


言い返せばよかった。
そいつの発言も着てる服もそして体つきや顔に関しても全部を否定してやればよかった。
そいつのその夜がもう取り返しのつかなくなるほどダメになるくらい
週末が来るたびに思い出すくらい
向こう一年は治らない傷を心に与えてやればよかった。
語彙力のすべてを凝縮して固めたもので心臓に鈍痛を与えたかった。


過ぎてから色々と思う。
活字にすると自分の小物感が具体性を増してしまった。
あのとき瞬発力があれば、と
言えなかったストレスが自身の健康を脅かしている。

こうなる前に、後悔する前に言うべきだった。


でも多分自分は次回も言えないんだろうなってのは何となく分かるが
ただ「言ってやるぞ」の気概は胸に。


情けなさすぎる文章だ。